見たり読んだり、なにか発見したり。

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 考えてみれば、三谷さんの芝居を見るのは初めてだった。(いつもチケットが取れない)
 今回もパルコ劇場のチケット争奪戦に敗れたため、鳴り物入りで誕生した新しい劇場で観劇。
 3階B席だったが、顔で役者を判断するのはほぼ不可能なので(ちなみにS席の半額)
 できればオペラグラスを持っていくことをおすすめします。
 あと、ここの3階席はコクーンシートなどに比べると傾斜がきつい気がしました。

 舞台は1941年のベルリン。
 ヒトラー内閣の宣伝大臣ゲッベルス(小日向文世)宅で行われたある一夜の
 ホームパーティーで起こる波乱を描く2幕3時間。
 映画をこよなく愛し、ナチス政権下ですべての芸術を監視検閲する権利をもつゲッベルスは、
 敵国が放った「風と共に去りぬ」を超えるような、単なる戦意高揚目的でない映画を
 つくるため、さまざまな映画関係者をこの日のパーティーに呼んでいた。
 そこにヒムラー内相(段田安則)、ゲーリング元帥(白井晃)という2人のナチス高官が加わり、
 映画関係者それぞれの思惑とともに、
 「国民の映画」実現を夢見るゲッペルスと彼らの背後に、しだいに
 姿なき「あの方」(=ヒトラー)の存在が見え隠れするようになる。やがて観客は、
 あの時代に実際行われた「狂気の沙汰」が、舞台上で確かに進んでいたことを思い知る。
 ゲッベルス家の執事にして映画通、家のことをすべて切り盛りしていた
 フランツ(小林隆)がユダヤ人だったことが、ヒムラーにバレるのだ。

 三谷さんは、
 僕らと同じような町に住んでいた同じような人が、たまたま特殊な状況に置かれたために
 狂気に走ったという描き方をしないと、本当の恐ろしさは伝わらない。
 

 と書いているが、物語の後半でナチスの突き進もうとする道が明白に示されるまでは、
 登場人物はそれぞれ愛すべきところのある、ごくごく普通の人間として描かれている。
 フランツの身の上を知りながら、彼を救う道は絶対に選べないゲッベルスが
 パーティーの招待客全員に去られ、最後に残ったゲーリングに問う。
 「私は、映画(※芸術だったかも)を愛することを許されないのか」
 ゲーリングは答える。
 「愛することは許されるだろう。だが、映画からは愛されない」

 善良な人間のなかに、取り返しのつかない行いを正当化する考えが芽生える。
 誰がどんな選択をし、最終的にどう生きたか。
 登場人物のその後をフリッツが淡々と解説するラストシーンは、
 涙腺を刺激されるというより、やるせない気持ちを誘われた。
  
 三谷さんは案外、井上ひさしの後をつぐ人なのかもしれない。
 反戦メッセージをふくめ、市井の暮らしが胸を突くという意味では
 井上さんのほうがダイレクトに響くのだけれども。
  
 あと、シルビア・グラブや新妻聖子(マライア・キャリーばりの音域にビビった)の
 安定感にミュージカル女優の実力を感じたり、
 今井朋彦を生で見られて大いに満足したり(ドラマ「HR」を見直したくなった)
 段田安則はやっぱ巧いな~と思ったり、役者陣は総じてよかった。
 いい舞台には、いい台本といい役者が不可欠ですから。
 ところで、いろんな人のブログ等を読んで知ったのだが、
 フリッツの身元がバレるクライマックスの一連のシーンでつぶやく
 ゲッベルスの妻マグダ(石田ゆり子)のセリフに関して。

 「ユダヤ人にしては、感じがいい人だったのに」
 と言っていたらしいが、私は最初の「ユダヤ人……」がかろうじて聞こえただけだった。
 この芝居の「怖さ」を考えたとき、それこそ最初からずっと感じのよさそうだったマグダが
 何気なくこのセリフを吐くことは、結構なインパクトだと思う。

 聞こえなかったのは私だけかもしれないが、セリフのトーンに再考の余地あり?
 
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2011.04.22 / Top↑
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